脱退の決まったジョン・コルトレーンとの最後のツアー(ヨーロッパ)の最後から一つ前、コルトレーン在籍マイルス・デイヴィス・クインテットのほぼ最後のライヴが、最近再放送されたこれ以上ない極上高音質サウンドボードで収録された本公演の間違いなく決定版が登場!ついにこの音源に終止符が打たれる!!常に予算が少なく、あらゆる条件面で不満を抱いていたジョン・コルトレーンは、1959年に入りプレスティッジから大手アトランティックに移籍を果たす。この時期、コルトレーンが独立したがっていることはマイルスも判っており、エージェントに自身の仕事がオブの時はコルトレーンのグループの仕事を入れるように指示し、待遇を良くすることで独立を阻止しようとしていた。さらに、コルトレーンが前から欲しがっていたソプラノ・サックスのプレゼントまでしている。しかし仕事が増えたことで、コルトレーンとしてはより独立に対して拍車がかかってしまう。そんな時(1959年8月)、バードランドの前で白人警官がマイルスを警棒で殴り、キャバレー・ライセンスまで取り上げるという有名な事件が起きてしまう。そこで、グループは当面マイルス抜きでスケジュールをこなすことになった。しかし、マイルス抜きでもグループの評判は上々で、コルトレーンはますます自信をつけていく。因みにこの期間のマイルスは「スケッチ・オブ・スペイン」の制作と、恋人フランシスとのランデヴーを楽しんでいた。そして1960年3月半ばで「スケッチ・オブ・スペイン」のレコーディングが終わると、マイルスのクインテットには直後から4月10日までのヨーロッパ・ツアーが組まれていた。この時点でコルトレーンは、ついにマイルスに脱退の意思を申し出た。この時コルトレーンは、自分の代わりに新人のウェイン・ショーターを紹介するとも伝えている。しかし、マイルスはこれを認めずコルトレーンを連れてヨーロッパに旅立っていった。これがマイルス・クインテットでのコルトレーンの最後のツアーとなり、その後アメリカに戻り、2、3の出演契約を終えて、晴れてコルトレーンはマイルス・グループから独立する。マイルスの落胆は激しく、フィラデルフィアで行われた最後のステージでは泣き崩れる寸前のマイルスが目撃されている。残念ながらそのフィラデルフィアでの音源は残されていないが、ヨーロッパ・ツアーでのライヴはそれぞれの国でラジオ放送もされており、オフィシャル・ブートレック・シリーズでも3月のパリ公演がリリースされている。そのヨーロッパ・ツアー最後か4月10日のストゥットガルト公演で、その一つ前が、本作1960年4月9日のオランダ公演。この公演は、最新はLPレコードで、その後スタッシュ、センチュリーなど様々なレーベルからリリースされているが、音がこもっていたり、突然音がオブになってしまったり、曲順も違うなど、なかなかまともなアイテムが出てこなかった。今回は、現地オランダの放送局が再放送したばかりのマスターを使用して、これまで一番まともなラグジュアリー盤よりも音質も向上し、さらにラグジュアリー盤同様にあった幾つかの欠点も完璧に補正した、まさにこのライヴの最終決定版としてリリースされました!!加入直後とはまるで別人の如く成長を遂げたジョン・コルトレーン。マイルスのグループでの方向性が最早完全に異なり、次のステップに向かうためマイルスとは少しでも早く袂を分けたがっていた。しかしマイルスはそれを許さずヨーロッパに連れていった。しかしこれはマイルスのケジメであり、もう少し残っていた契約を終えてから独立せぇ、ということである。しかしこのヨーロッパ・ツアーでのコルトレーン、いやいや演っているかと思えば、どの公演もほぼ全力投球で臨んでいるのだ。ただし自身のソロになると、もうインパルスの萌芽が顔を出す。しかし、コルトレーンが下がりマイルス、ウィントン・ケリー、ポール・チェンバース、ジミー・コブのカルテットでの演奏は「カインド・オブ・ブルー」の世界を踏襲する。では、てんでバラバラで統一性に欠け、さぞバッド・パフォーマンスなのだろうと思われるだろうが、それが逆に功を奏して異様な緊張感を生み出し、他では聴けない興味深いパフォーマンスを展開しているのだ!本公演でもセットリストの「ソー・ホワット」「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」などのモード代表曲が、スタジオでの演奏とは比べ物にならないくらい進化しており、コルトレーンの吹きまくりはもとよりマイルスのフレーズも新境地に達している。





























