マイルスは後年、かつてのメンバーと共演するなら誰がいいか?という問いに、彼が挙げたのはキース・ジャレットひとりだけだった。マイルスはキースがお気に入りだった。そんなキースのマイルスとの最後のヨーロッパ・ツアーよりボローニャ公演の大幅アップデート決定版に、巷で話題となっているマイルスとジミ・ヘンドリックス都市伝説がシークレット・トラックで初見参!!ウヒョ〜 キースが加わったことで低音部(ベース・ライン)のオーケストラ化を図ろうとしたマイルス。つまりキースのオルガンがベースとダブルでラインを弾くことによって微妙なズレを引き起こし、そのズレがマイルスを触発した そしてチック・コリアとデイヴ・ホランドがグループを離れると、ジャズとは全く違うリズム感を持つベーシストのマイケル・ヘンダーソンが加入。ここに当時のマイルスが狙っていた、70年代マイルスの肝といえる究極のリズムの探求が始まる。それはジャズでもなく、ロックとも違うし、ソウル・グループとも違う。メンバーだったゲイリー・パーツは当時のマイルス・グループをファンクをベースにしたフリー・ミュージックと言っていた。言い得て妙である さらにキース最後のヨーロッパ・ツアーではドラムがジャック・ディジョネットからレオン・チャンスラーに代わり、パーカッションもアイアートからエムトゥーメとドン・アライアスのツイン・パーカッションとなり、よりリズムの強化と音楽のシンプル化が図られた。このご機嫌なリズムに囲まれたマイルス、当時のライヴ群を聴くと、彼のキャリアのなかでも最も演奏を楽しんでいる様子が伺える。それがあってかなかったかは分かりませんが、1971年はほぼスタジオ(レコーディング)に入っていない。まさにマイルスにとって遂に自身の求める理想の音楽に着手した元年といえる、1971年キース最後のヨーロッパ・ツアーから11月15日イタリア、ボローニャ公演が、既発では籠りによってこじんまりした音像が見違えり、音が小さくなったり大きくなったりなどの欠点も改善された超高音質決定版にて登場!!この10〜11月に掛けて行われたヨーロッパ・ツアーでは、ほぼ毎日コンサートを演り、セットリストはほぼ同じながら一曲ずつ独立しているんじゃなくてメドレーをノンストップで演奏していたので、メンバーはステージにいる間、緊張感が途切れることがなかった。むろんバンドは日毎に良くなっていき、11月に入ってからの終盤のライヴはどれも素晴らしい内容だった。特にこの時のマイルス・グループはマイルスと同等に八面六臂の活躍をしていたのがキースで、「ホワット・アイ・セイ」や「ファンキー・トンク」ではジミ・ヘンドリックスの「ヴードゥー・チャイルド」のように激しく、ヘヴィーなナンバーに挟まれて切なく響くバラッド「サンクチュアリー」ではジミの「リトル・ウィング」の如くフェイシング・ユーなキース。特筆すべきは、今回の決定版ではこの日のハイライト!中盤になんと15分以上に渡り演奏された「サンクチュアリー」が、既発盤では1〜2枚目に掛けて分散収録されていたのが、本Gi盤では中断なし!1枚目のラストに完全収録されているのもポイント高いです!この曲の前半ではマイルスとキースのインプロビゼーションの応酬、またマイルス、キースそれぞれのソロも出色の出来となっています!この前年マイルスは、ジミ・ヘンドリックスとの共演の計画があったがジミの急逝によりお流れ。その前後に現れたのがマイルスにとっての救世主となる孤高の天才キース・ジャレットだつた!そのジミに匹敵する才能を誇るお気に入りのキースの背後に、マイルスはジミの姿を見ていたのかも!!【シークレット・トラック】Jimi Hendrix / Miles Davis Rainy Day, Dream Away Recorded in 1967 - 1968マイルス・デイヴィスは、彼の2番目の妻ベティ・メイブリー(デイヴィス)から音楽のみならずファッションほか、あらゆる面で多大な影響を受けた。ベティは後にファンク・ディーバなどと呼ばれるが、当時もスライ・ストーンやジミ・ヘンドリックスらと交友があった。当時のマイルスはベティからそれらの音楽を聴かされ大きな衝撃を受ける。特にジミには大きな関心を持ち、ベティを介して出会うと瞬く間に深い絆で結ばれ、その後ジミが亡くなるまで交流が続いた。ジミもジャズにかなり興味を持っており、特にマイルスの「カインド・オブ・ブルー」はジミの愛聴盤で、ジミはマイルスを尊敬していた。またマイルスもジミの才能にとても惹かれていた。ジミのレコーディング時でのスタジオでのマイルスとの会話なども記録として残ってはいるが、セッション(共演)に関しての情報というのはほぼなく、都市伝説として知られている。しかし、1967年にジミの最後のスタジオ作品となってしまった「エレクトリック・レディランド」のレコーディングでは、同時期に目と鼻の先のスタジオでマイルスも「ネフェルティティ」の録音を行なっており、ジミはマイルスから助言を受けたりしていた。